404 Blog Not Foundの小飼氏によると、『ググるよりググられることを目指せ』(1)とのことだ。ブログ記事を無断転載(コピペ)した連中よりも、無断転載(コピペ)されたブロガーの方が得をすると言う。
しかし、本当にそうだろうか?そもそもブロガーにとって、「旨い話」はあるのだろうか?ブロガー同士の間で著作権がルーズに無視されるという状況が言い表しているのは、むしろブログ界の自爆ではないだろうか?
無論、<価値のある記事>にせよ<価値の無い記事>にせよ、著作権があるという意味では、平等である。どちらの記事も、不当にコピペされるべきではない。しかし、<価値のある記事>と<価値の無い記事>を「不当にコピペされるべきではない記事」として同一視するとなると、次のようなパラドクスが生じる。つまり、「記事それ自体の価値」よりも、「記事の著作権を護ることの価値」が上回るということだ。
<価値の無い記事>よりも「<価値の無い記事>の著作権を護ることの価値」の方が高いとなると、読者にはある種の負担を強いることになる。ただでさえ、<価値の無い記事>は引用・参照される可能性が低い。それにも拘わらず「著作権を護ることの価値」をリジットに重視するとなると、参照する読者は<価値の無い記事>の著者名・題名・ブログ名・URL・アクセス日時まで、厳密に記述しておかなければならない。一体、そこまで時間や労力を費やす価値はあるのだろうか?そんな時間や労力があるならば、むしろ<価値のある記事>を「ググり」、新たに発見した<価値のある記事>を参照・引用した方が価値があるようにも思える。
だとすれば、<価値の無い記事>の著者がその記事の著作権を主張するならば、「単にリンクを貼る」(4)くらいのルーズな方法でも、許容した方が良いのかもしれない。あまりリジットに「著作権の護ることの価値」を主張すれば、<価値の無い記事>は相手にすらされなくなってしまうだろう。どんな記事でも、閲覧(セカンドオーダーから観察)されない限りは、価値の有無は判別されないのである。
巷では、「はてなブックマーク -ソーシャルブックマーク」のように、ルーズな手続きでリンクを貼れるアーキテクチャが導入されている。はてなブックマークに登録された場合、表記されるのは、精々のところ記事の題名、記事のURL、ブログのURLくらいであり、付加的に「タグ」や「キーワード」を設定できる仕組みになっている。<価値のある記事>にせよ<価値の無い記事>にせよ、等価の単純な手続きで「単にリンクを貼る」ことを可能にしている。
単純に、簡単に、無知でも無理解でも、言及リンクを貼れるのだ。今更、参照文献や引用文献の書き方を学ぼうとする動機など、生れないだろう。こうした現状にも拘わらず、リジットに著作権を主張しようとするならば、楽な技術に慣れ親しんだ多くのユーザーを遠ざけてしまう。しかし逆に言えば、ルーズにしか著作権を主張していなければ、言及される可能性をある程度維持できるのである。『「たいして面白くない記事がたくさんブクマされているぞ」問題』は、<価値の無い記事>の記述者にとって、ある意味でありがたいことなのかもしれない。
ここに更にパラドクスが生じていると考えて良いだろう。つまり、著作権をさほど主張しない著者に甘えてしまうと、自分の記事の価値が無くなってしまう可能性である。「単にリンクを貼る」くらいのルーズな方法を許容している著者の記事を参照・引用した場合、参照・引用された側の<価値の無い記事>の価値が高まる可能性が生じるのに対して、参照・引用した側の記事の価値が低まる可能性が生じる訳だ。
一つの方法は、この記事の著者もまたルーズな著作権しか主張しないというものである。つまり、「単にリンクを貼る」くらいのルーズな著作権しか主張しないということだ。一方では「単にリンクを貼る」くらいのルーズな参照・引用のみを実行しつつ、他方では「単にリンクを貼る」くらいのルーズな著作権しか主張しない。こうすることで、一旦<価値の無い記事>として観察された記事は、再度<価値のある記事>として観察される可能性が高まる。だが、「単にリンクを貼る」くらいのルーズな参照・引用をしていては、やはり無価値として観察する者もいる。したがってこの方法では、その記事は単に<価値のある記事>になることもあれば<価値の無い記事>になることもある、曖昧な立場となる。
これは、著作権をルーズにしか主張しないブロガー、著作権をルーズにしか護らないブロガーが直面するパラドクスである。このパラドクスを展開(打開)するためには、もはや価値の有無でブログ記事を判別することを、取り止めなければならない。著作権はルーズにサボろう。その代わり、価値が有ろうが無かろうが、どうでもいい。そんなところだ。
では一体、価値以外に何があるのだろう?無論、価値の有無では測り得ない何かであるのは確かである。たとえば、目的や手段としてブログ記事を書く者もいるかもしれない。しかし、著作権をルーズにしか主張せず、ルーズにしか護らないブロガーの目的や手段とは、何なのだろうか?もし目的や手段としてブログを書くのであれば、むしろ著作権をリジットに護ることで、学術的にゴミ扱いされる可能性を抑えた方が好都合ではないのか?「単にリンクを貼る」だけのブログを観ても、何をしたいのかがよくわからない。
知識社会という名の無知社会では、もはやブログに情報や知識を求めるのは時代遅れである。もしも未だに<ブログ論壇>と呼ばれるブロガーたちがいるのならば、語るべきは<マス・ゴミ>的な無駄話ではなく、ブログ論であることを指摘しておきたい。とりわけekken氏のようなメタ・ブログ論を論じられるほどの手腕の持ち主が、必要となっているのである。
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 「価値の無いブログ」と「コピペ・ブログ」の未来像
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