以下のお話は、教育論を構成主義的な社会システム理論を利用することで再記述したものです。結論は別段真新しいものではありません。私の結論は、人間中心主義の落ち度を繰り返さずに、「無知」を如何にして活用するのかを教育させるというものです。無論、作為的に。
1.用済みとなった人間中心主義
2.「無知」を活用する方法を学習しよう
教育を語る前に取り組んでおくべきことは、人間中心主義的な教育を諦めることです。
階層的に分化していた前近代社会の教育概念は、貴族へと教え育てる意思が前提となっていました。これはギリシア哲学の育成概念に基づく視座です。一方、18世紀から世紀末にかけて、啓蒙主義や人間中心主義を基本的視座とした教育理論が注目を集めるようになると、主体の啓蒙が教育の主要な意図となります。
しかし、こうした人間本位な教育では、社会構造の動態的な作動状況への理解を等閑視することになります。人間それ自体を主眼に置くことが、間違いだということ。とはいえ従来の教育制度は、脱人間化ではなく人間の分化を顕在化させることで、人間それ自体を主眼に置くことによる問題を潜在化してきました。<主体的>か<非主体的>か、<道徳的>か<非道徳的>か、<倫理的>か<非倫理的>か。こうした差異に言及していれば、社会システムの構造的複雑性を等閑視したままでやり過ごすことができる訳です。
とはいえ、ポスト・イストワール以降の学知を前提とする限り、人間は、一つの意味で語るには余りにも複雑なシステムであることが明らかになります。「人間とは何か」というカント的な問題提起に対して、一つの絶対的な答えを出すことは不可能であるということが、周知となったのです。自然と逆行する存在者としての精神人間を説いたヘーゲルの見解もまた、危ういと言えるでしょう。
私が知る限り、近年注目を集めた複雑系科学やオートポイエーシス理論が、こうした「人間とは何か?」と<目配せ>する方々に止めを刺したものと思います。「人間が社会の要素である」という視点はもはや時代遅れの戯言。人間とは、数多のオートポイエティック・システムが構造的な接点を持つことで創発現象を引き起こす複雑系に他ならないのです。この複雑なシステムとしての人間は、複雑系であるが故に決定論的な標準化による同一化を受け付けません。差異の同一化は、常にパラドクスの展開と共に遂行されます。だから「人間とはこういうことだ」と言うだけなら簡単なのですが、実際にその通りになるのは夢のまた夢なのです。
こうした人間中心主義の落ち度を観る限り、教育システムに課せられるであろう社交性や社会性を人の道を説く道徳へと縮減(単純化)するのは、お粗末な選択です。<道徳ごとき>で語れるほど単純ではない問題が、既に頻発しているためです。多文脈的かつ再帰的に構成される社会的コミュニケーションに対面する限り、人間中心主義にできることは圧倒的にピースミルです。同じ理由から、構造的複雑性を個人と真理という形式へと縮減してしまう「教養」や「啓蒙」もまた、棄却される外はないでしょう。
無論、教育の目的には人間個人を変化させることも含意されます。だから、教育システムが人間中心主義を切り捨てないのは、単純に<道徳の一つ覚え>が蔓延っているからではありません。しかし、「人間が社会の要素である」という的外れな見解は足枷です。むしろ教育システムに必要なのは、人間と社会を意味論的に区別することです。両者に差異を構成させる、と言っても良いでしょう。既に観てきたように、教育システムが<人間>に言及しただけで<社会>を変えられるというのは、ある一つの選択的な単純化に過ぎないのです。<人間>を連呼することに、必然性はありません。
以上の考察と同時に言えることは、教育システムが重視すべきことが知識や情報の伝達ではないということです。むしろ重視するべきことは、「無知を如何にして活用するか」です。
たとえば高度情報化が伴った現代社会では、ますます情報が氾濫していくのが通常です。情報の氾濫とは、言い換えれば情報や知識が増幅していくということになります。しかし、この情報や知識の増幅が我々の<既知の領域>を広めていると考えるだけでは、浅墓です。むしろ、逆であると考えるべきでしょう。高度情報社会における情報や知識の増幅は、我々の<無知の領域>を拡大している、と。
シミュレートしてみましょう。ウィキペディアに新たなページが追加されました。とても専門的なことが書かれています。これは、人類の知識や情報網が強化されたことを意味するのでしょうか?逆です。ウィキペディアに新たな知識や情報が導入された場合、まず導入されたという事実を知らないでいるネットサーファーが構成されるでしょう。次に、ウィキペディアに導入された新たな知識や情報を直ぐには理解できない閲覧者が構成されるでしょう。あるいは、その知識や情報を適切に理解するためのバックグラウンドを持たない方々も構成されるでしょう。そして、そのウィキペディアに導入された知識や情報が果たして正しい情報なのかどうかを知らないでいる閲覧者が構成されるでしょう。挙句の果てには、その知識や情報が通用している現状のパラダイムがいつシフトチェンジされるのかを知らないでいる閲覧者も構成されるでしょう。結局、知識や情報を頭に詰め込んだだけでは、何が起きるのかわからないからです。
何かを知れば、何かがわからなくなります。発見と盲点は、「地」と「図」の関係です。一方を顕在化させるためには、他方を潜在化させなければなりません。これを前提にすれば、教育システムが取り組むべきことは、<既知の領域>を学習させることではありません。むしろ<無知の領域>を如何にして活用させるのかを問う必要があります。たとえば、「無知」が伴う未知の未来に向けて、如何にして「決定」するかを学習させることが重要と言えます。「決定」とは、選択性の潜在化を意味します。複雑性は無論<既知の領域>に含まれるはずはなく、あくまで<無知の領域>に含まれます。とはいえ、<無知の領域>だからこそ、社会システムには広範な選択性が伴うと言えるでしょう。この意味で、社会システムの構造的な複雑性を選択的に縮減(単純化)する手立ては、いくらでもあるのです。
※ 2008/04/05 06:24にカテゴリーの編集を行ないました。
ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『社会の教育システム』東京大学出版会(2005)
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